土佐之梦(校对)第2部分在线阅读

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  【梶の叶】
  诹访明神の神纹として有名。『羽継原合戦记』では、信州诹访付近の豪族下条、山辺氏らがみえる。神官の出自をもつ梶、神、祝、金刺、矢守、茅野氏など、いずれも梶の叶纹。大祝の出自をもつ诹访氏は、上原城にあったが武田信玄の攻撃を受け灭亡。のち一族が徳川氏に谊を通じて诹访高岛城へ返り咲く。所领三万七千石。
  【丸に三つ叶柏】
  『见闻诸家纹』には、热田大宫司の千秋氏をはじめ、宗像大宫司氏郷、神谷、雀部、尾林、竹内、山内、水原、朝日氏などがみえる。山内氏の场合、一豊の父盛豊は织田氏に仕え、丹波の合戦のとき柏の枝を旗指物にして奋戦。胜利したとき枝に残った叶が三枚だけだった。よって三つ叶柏を家纹にしたと『土佐山内系図』に伝えているが、事実は山内一门の柏纹ははるかに古い。足利义満と远祖山内猪右卫门が戦ったとき、すでに柏の指物があったと『别本山内系図』に伝えている。また、奥羽の葛西一族も三つ叶柏纹を使用。
  【酢浆草】
  『见闻诸家纹』には、小田又次郎知宪、肥田助太郎政秀、中沢、多贺、赤田、平尾。长宗我部氏がみえる。三つ叶の间に剣を配した武家好みのデザイン「剣酢浆草」はこのあと、戦国期に入ってからであろう。徳川氏関系の戦国大名では酒井、森川氏などがある。
  【丸に唐花菱】
  『相国寺供养记』には、武田信在が红直垂に违い菱の缝い纹をつけていたとある。『长仓追罚记』には、大内介が唐菱。甲斐武田と若狭の守护は武田菱。菱鹤は南部纹。坂西は丸に松川菱。赤沢は松皮菱に十文字。远州の小笠原も松皮菱などとみえ、武田一门がベースとなっている。『见闻诸家纹』には武田氏の松皮菱、唐花菱。小笠原氏の三阶菱。大内氏の唐花菱。秋山氏の松皮菱などがみえる。
  【一つ远雁】
  『见闻诸家纹』では、井上右京亮贞忠の二つ远雁。违い远雁が小串氏、进藤氏、阿波の大西氏。菊水に二つ远雁が大芋氏。笹竜胆に二つ远雁が和州の越智氏。丸に三つ远雁が高宫氏。カコの内一つ远雁が高安河内入道永隆と饭尾左卫门大夫之种。『永仓追罚记』には、远雁金は安部殿。水に雁は小串五郎とある。信州では、滋野氏の流れを汲む海野、望月、祢津、真田氏らが雁纹。また同じ信州で、このほか井上、赤井、上林、山口氏らが同纹である。
  【桔梗】
  「土岐の桔梗一揆」といわれるように、桔梗のシンボルのもとに団结した土岐氏一族は美浓に威势を振るった。『见闻诸家纹』でも土岐氏の存在が明らかである。织田信长を倒した明智光秀、秀吉に忠节を尽くした加藤清正などいずれも土岐氏族と伝えられる。また、相模の太田氏は多田氏族の出自をもつが桔梗纹。太田道灌が有名。末裔の重正のとき家康に仕え、のち远江挂川五万二千石。
  【丸に抱き杏叶】
  『见闻诸家纹』では、大友豊後守亲繁、摂津修理大夫之亲、田村氏、安芸の毛利氏(替纹)、饭河远江守、崎和筑前守などが抱き杏叶纹。近江の目贺田氏が三つ盛杏叶。芸州の厳岛氏、大野氏、温科氏などが杏叶九曜。大友氏は相模出身の豊後守护だが、一族や有力家臣にも与えて同纹の衆として优遇した。立花氏も大友一族として同纹。元亀元年龙造寺氏が大友宗麟を破り杏叶纹を家纹とする。のち、龙造寺氏を断絶させて杏叶纹を夺ったのは重臣锅岛氏。
  【五七の桐】
  足利尊氏が後醍醐天皇から下赐されて以来、足利幕府は一族の吉良氏、一色氏をはじめ、管料の畠山、细川氏をはじめ勲功のあった三好义长、松永久秀、上杉谦信、大友宗麟らに下赐。最後の将军足利义昭も前例にならって、织田信长へ与え、信长もまた秀吉·家康らに与えて优越感にひたる。今日の勲章にも似た価値観があったものか。
  【军配団扇】
  『见闻诸家纹』では、粟生田次郎左卫门尉経行、矢岛、真下、富田氏らがみえている。これらはいずれも武蔵を中心とする児玉党の出自をもつ。三河出身とする奥平氏も児玉党といい、军配団扇纹。
  【洲浜】
  『长仓追罚记』には、常陆の宇都宫氏族の小田の大辅の名がみえ、『见闻诸家纹』には、安芸の宍戸氏をはじめ陶山氏、越智氏族の寺町氏や伊庭氏、茨木氏がみえる。云州佐々木の吉田氏は三つ盛洲浜纹。松代の真田氏も一つ洲浜纹。
  【违い鹰の羽】
  『见闻诸家纹』では、栏干丸に鹰の羽の町野左近将监敏康、并び鹰の羽の菊池氏。违い鹰の羽の後藤左京亮、抱き鹰の羽に二つ引両は美马氏、三本鹰の羽の稲毛氏。摂州の太田氏は一つ引両に违い鹰の羽、加州の仓光氏は五本鹰の羽、中村氏は丸轮に违い鹰の羽、福井氏は违い鹰の羽がみえる。『长仓追罚记』は菊池氏だけ。戦国末期に土岐氏族の浅野氏が违い鹰の羽を用いた。
  【竹に雀】
  『见闻诸家纹』では、竹の丸に亀甲の朝仓下野守、三本竹の粟饭原氏、竹の丸に雀の上杉氏·箸尾藤徳丸、违い竹の河村氏、竹の丸に桐は明石越前守·上神氏·大鸟氏などがみえる。竹に雀纹は、上杉氏から长尾氏·伊达氏へと伝わっていった。その伊达氏はまた最上氏へと分譲している。
  【橘】
  『见闻诸家纹』のころ(応仁末年=1468~文明二年=1470までの间に成立)では、武家の间に多くみあたらない。薬师寺扫部助元隆の三つ橘纹と小寺藤兵卫尉の三つ橘に藤巴が记载されている。戦国末期に台头する井伊氏の橘が有名。また山中鹿介も橘纹をしようしていた。
  【丸に茑】
  椎名氏、富田氏などのほか、高安河内入道永隆の纹が『见闻诸家纹』にみえる。戦国末期に台头した六郷氏や藤堂氏が茑纹を用い、徳川一族の松平诸家のほとんどが茑纹。しかし、応仁の乱直前のころの合戦をモデルに书かれた『永仓追罚记』には茑纹がない。従来、茑は葡萄の叶から考え付いたのではないかというが、それはおかしい。理由がわからない。ひとつの私见としてあげれば、足利氏の桐纹の下赐が、次第に直接的ではなく、多くは赔臣的立场への派生を帯び、そのまた家来へと枝条的となっていったため、桐纹泛滥を避けるデザイン的知恵が生まれたのではないだろうか。つまり至尊をはばかり、桐纹の下部の叶だけを残し、上の花を除いてその部分を叶に変えれば、桐纹が一転して茑の纹となる。まだ花咲かぬという谦譲の精神をこめ、末梢的系谱の人々へ与えたのではないだろうか。
  【鹤の丸】
  『见闻诸家纹』では、楢叶左京亮の対い立鹤、佐脇五郎明房の云月に舞鹤、波々伯部彦次郎贤豊の松喰い鹤、大和氏·远江の蒲生氏の二つ引両に対い立鹤、石川氏の飞び鹤がみえる。『永仓追罚记』には高井左卫门尉の松に鹤、南部氏の菱鹤、近江御门の後裔葛山备中の庵の内対い鹤などがある。戦国末期には、诹访氏や森氏の鹤の丸などがある。
  【三つ巴】
  古代に海の彼方から渡来したデザインである。『见闻诸家纹』には、曽我氏の云に左三つ巴、赤松兵部少辅の二つ引両に左三つ巴、宇都宫氏の右巴、小山氏の左巴、杉原氏の角巴、香河五郎次郎和景·越後の长尾氏の九曜巴、山田道祖千代丸の鳞巴、丸豊前七郎朝达の三つ盛巴、芝山三河守持嗣の三つ积み巴、山下左京亮の桝形に右三つ巴、金山氏の一つ引両に并び巴がみえる。その他、厳岛·大野·温科氏らの替纹として右三つ巴がある。武神として尊敬を集めた八幡宫の神纹であった巴纹は、武家社会で人気があったことはいうまでもない。
  【丸の内二つ引両】
  二つ引両は足利氏の代表纹。引両纹は幕纹からの転移といわれるが、その起源については明らかではない。『见闻诸家纹』によると、吉良、渋川、石桥、斯波、细川、畠山、上野、一色、山名、新田、大馆、仁木、今川、桃井、吉见氏ら一族や阁僚メンバーがみえるほか、他纹と组み合わせたものに、赤松、三浦介、远山、富永、长野、庄、吉川、波多野、神保、三渊、蜷川、川原、中沢、饭川、安木、大和、绮(Kawata)、黒坂、平尾、金山、物部、矶谷、三木、西面氏などの武将にみえる。
  【下り藤の丸】
  藤原庶流を名乗る武将の家纹である。加藤、佐藤。斎藤、近藤、首藤、进藤、武藤、尾藤、後藤……など庶流が用いた。『见闻诸家纹』では、讃岐の大野氏、摂津の伊丹氏、河内の由佐氏、美浓の伊贺氏、播磨の小寺氏、近江の箕浦氏などがみえる。『永仓追罚记』では、越中の神保氏、三河の铃木氏その他がある。
  【三つ星に一文字】
  三つ星は大将军星·左右将军星の三つを指すので三武、武神としての信仰がある。一文字はカツと発音するので武威をシンボル化して造成された。『见闻诸家纹』では、本郷氏、渡辺氏、飨庭氏。一文字三つ星は、长井·毛利·竹藤·萩·绮氏。三つ星に吉の字は毛利氏。三つ星に一文字は、渡辺·曽祢崎氏が用いた。
  【隅立て四つ目结】
  近江の佐々木一族の代表家纹として有名。『见闻诸家纹』では、佐々木大膳大夫入道生観の四つ目结。二松·饭田氏の三つ目结。本庄氏の九つ目结、武藤左京亮信用が寄挂り目结、椎屋氏が四つ目结、本间氏が十六目结、能势氏が丸に十二目结纹とある。なお、佐々木氏の流れといわれる宇多源氏の武将京极·建部·亀井氏らも四つ目结。近江を出自とする尼子氏が七つ割り平四つ目结。越中の佐々氏は滋目结を用いた。
  【织田木瓜】
  もともとは海の彼方から渡来した贵族纹だが、武家社会に広く普及した。织田信长の家纹として有名だが、もとは朝仓氏の陪臣的家系だった。したがって朝仓氏も同纹。『见闻诸家纹』では、木瓜に二つ引両の富永氏、六つ木瓜の尾张守政长の被官游佐河内守、二つ木瓜に庵の海老名与七政贞、并び木瓜の岩城中务丞宗直、五つ木瓜の宫氏、大平氏。さらに、四つ木瓜の八木氏、大田垣氏、池田充正。三つ盛木瓜に二つ引両の三木氏などがみえる。
  文中にひいた『见闻诸家纹』は、一名を「东山殿御纹帐」ともいわれる通り、室町幕府八代将军足利义政の顷の将军家を初めとして、守护大名から国人层に至るまでの诸家二百六十ほどを次第不同に収録したもので、武家家纹の研究には欠かせない史料としてつとに有名である。
  また、『永仓追罚记』は『羽継原合戦记』ともよばれたもの。これの原典となる『永仓状』には家纹のことは记されていないという。しかし、纹章武将名についてみるとき、『见闻诸家纹』に比べて劣ることは否めないが、内容的に大过がないのではないかと考え、暂定的参考书にとりあげた。
第二节
小说的资料——军制篇
  一、军阵的基本构成
  日本战国时代,大名军阵由大名本阵和若干独立军团组成。
  本阵成员包括总大将、副将、军师、佑笔(执笔)、军奉行(管辖其下的旗奉行、弓奉行、枪奉行、小荷驮奉行、兵粮奉行)、军目付、使番、物见番头。此外还包括马回、小姓、药师、祈祷僧等保障人员。
  独立军团一般包含侍大将、枪大将、铁炮大将、足轻大将、弓大将以及其下的兵吏、兵丁组成,独立军团中的各个作战分队之间也有使番负责联络。
  二、本阵
  1.总大将。总大将坐镇本阵,为全军最高统帅,类似现代司令员一职。战国大名本人出阵之际,自动成为全军的总大将,如果大名本人年老、年幼或者生病不宜出阵之际,一族中的重臣便代替其出阵成为总大将。战国初期,战役的规模一般很小,参战双方兵力只有几百数千,在较小规模的军势中,总大将一人便可使军队调度自如。但是,经过数百年的混战,不断的兼并,逐渐形成了一些占据一国乃至数国的强大家族,随着战争规模的扩大,动员一、两万人参加的大型合战日渐频繁,甚至在战国后期出现
  二、三十万的庞大军团,于是建立一个效率高、职责明的指挥首脑机关便成了顺理成章的事情,这直接导致了本阵的形成和规模的扩大。
  2.副将。本阵中有副将,一般是由总大将的亲族担任,辅佐主将,类似现代副司令员一职。不用多说。
  3.军师。军师想必大家都很熟悉,负责出谋划策,手握军配,观星象、占阴阳、算成败,一副诸葛亮、刘伯温在世的模样。战国历史上著名的军师有太田道灌、雪斋、山本勘助、山中鹿介、立花道雪、锅岛直茂、安国寺惠琼、片仓小十郎、岛左近、直江兼继、真田幸村、本多正信等人。
  4.佑笔。本阵中还有一个非常重要的文职人员,名叫佑笔,又称执笔,相当于我国古代历史上的书记、文书之类,也就是现在的秘书类型的角色。他的主要工作是做会议记录,起草各类书状(包括功名状、感状等),还保管着总大将的花押(印章)。
  5.军奉行。军奉行负责按照总大将的授意调动部队、指挥作战,类似于现代的总参谋长。军奉行手下的旗奉行、弓奉行、枪奉行、兵粮奉行、小荷驮奉行听他指挥,对他负责,类似于现代的机关各部门首长。我主要来说说军奉行这一役职。
  日本的战国时代是职制分工加快发展的时代,很多专门的职责被划分出来,根据当时文书、记录的记载,有普请奉行、寺社奉行、检地奉行、船奉行、公方奉行、藏奉行等,分别管理修建、宗教、土地、海上交通、外交、经济等各项事务,由于战争的关系,当然也划分出专门的军奉行掌管征讨事宜。由于攻防战守关系到一个家族的兴衰荣辱,所以军奉行位列奉行之首。根据大致成书于江户时代中后期的《武家名目抄》的解释,军奉行是“总裁军中一切,担当军国大任”。《保元物语》中的源为朝、《盛衰记》中的平知康,还有《平家物语》中的源义经都是军奉行,虽然那个时候军奉行还不是常设之职,而且名称还叫作尚军奉行,但其职责和战国时代想必也没有太大的出入。特别值得注意的一点是,越前的战国大名朝仓氏制定的《朝仓孝景条》中对军奉行这一职务做了特别的规定。按照规定,军奉行由得力的侍大将中选拔,出阵之际职掌军配,帮助总大将指挥全军。
  与军奉行相类似的职役是武者奉行,这一名称出现在后北条氏、武田氏的资料中,也出现于《武家名目抄》中。根据历史资料的记载,在不同的家族中,有军奉行这一役职的就没有关于武者奉行的记载,反之亦然。由此推断,我觉得所谓武者奉行其实就是军奉行的不同称呼吧。
  6.军奉行属官。军奉行手下的弓奉行、枪奉行等作战兵种主官,都不多说,我要多说几句的是小荷驮奉行、兵粮奉行等后勤部门主官。随着战争规模的扩大化以及战争时间的长期化,参战士兵的兵粮、弓矢、弹药、被装等辎重给养的输送和存储就变得越发地重要起来,甚至到了能够决定战争胜负的程度。相应地,一系列以为战争提供有力的后勤保障为职责的奉行职位就设立起来,并逐渐完善成熟起来。小荷驮奉行的主要职责是后勤物资的运输,只要能够将各种物资由后方运达前方就算完成了任务,当然这个差使也不是容易当的,被征调来当民工的农民时常集体逃跑,而如果不能将军需物资及时送达战场是会被砍掉脑袋的。兵粮奉行负责兵粮的筹措、囤积以及粮仓的维护管理,责任自然也十分重大。此外,有的家族还设有兵站奉行,例如武田家、后北条家等,历史上最出名的兵站奉行当属丰臣秀吉麾下的长束政家了。
  7.军目付。军目付就像总大将的眼睛,是“军阵监督者”,负责监督全军将士的行动,对于违反军纪者、私通敌方者和临战退缩者坚决取缔,类似于现在的宪兵或者军事警察。在蒲生氏军中对军目付有一个非常特别而生动的称呼——大横目,也许,在一般人看来,军目付成天到处纠察军兵,一副横眉冷对的样子吧。
  除了纠察违章违纪之外,军目付还有一个职责是记功。战场上看到谁又讨取了敌将的首级、谁又立下了什么功劳都要记录下来,报告给总大将和军师。战斗结束论功行赏的时候,由立功者自己申报,然后同军目付的记录进行对照,如果属实就对其战功予以确认,才能够进行封赏。
  8.使番。使番就是传令兵,遂行传达命令给下级、友邻部队和传达我方意见给敌方知晓两个方面的任务。信息传递的顺畅、及时、准确有利于确保各部队的协调一致行动,提高整体协同作战能力。同时,如果能够成功寝返敌军,达到不战而屈人之兵的目的更是减少我军消耗,达到战略目标的上策,所以使番还有一项重要工作是积极地进行劝降工作。
  电影里面经常出现这样一个镜头——一名使番骑马飞奔,结果被敌军埋伏的绊马绳绊倒,活捉,搜出重要情报文书。为了避免这样的情况发生,重要机密事务都是口授给使番的,然后由使番抵达目的地后亲自口述。这几乎是当时的通例,而且以武士对主家的忠诚,即使被捕也不见得能审问得出什么,所以,前面所说电影里面的情节在当时是不大可能发生的。使番还有特别的标志,比如武田家的使番背后有三面小靠旗,德川家的使番背后有一面“五字”靠旗,这些都是众人皆知的了。
  9.物见番头。日语中的专有名词有的非常形象,比如这个物见就是观察、侦察的意思。而物见番头就是侦察分队的首长,负责侦察敌军的动静以及地形、战况等,及时为本阵参谋团提供有用的情报。
  10.马回。马回为本阵警卫力量,负责本阵指挥机关的安全,类似于现代的机关直属警卫队。根据记载战国大名军团编成的《阵立书》的记载,马回众主要是由总大将的直臣团构成,是最忠诚的部队。马回众中最有名的当数织田信长的赤幌众(赤母衣众)和黑幌众(黑母衣众),后来成为“加贺百万石”的前田利家当初就是以赤幌众起家的,而名将佐佐成政和河久秀隆则是黑幌众出身。后来,丰臣秀吉也仿照信长的赤幌众和黑幌众成立了自己的警卫部队——黄幌众。家康军中,马回被称为旗本,由神原康政、本多忠胜、鸟居元忠等一大批名将率领的家康的亲卫队——“旗本先手役”作为德川军中战斗力最强的精锐部队屡次在战斗中担当突击队。
  11.其他。本阵中还有一些保障人员,主要有太刀持小姓、大马印持、小马印持、本阵旗持、旗差、太鼓、法螺贝、祈祷僧、药师等,主要就是负责为总大将携带武器旗印、指挥作战、祈祷胜利和疗伤治病之类。
  三、独立军团
  1.侍大将及其军团
  侍大将是独立指挥一支部队的领导,以前一般是出战之前临时由家臣中选择信赖者委任,是一个临时职务,战前授予,战后削去。后来随着战乱状态的恒长化,这一临时职务逐渐成为了常设职务。前面说过,侍大将独立领导一军遂行作战任务,其麾下部队有统一的旗印,甚至连铠甲的颜色也有统一的要求。关东后北条氏的“五色备”就是典型,其军团铠甲分为红、白、青、黄、黑五种颜色,编成五队,独立或协同作战,想想红彤彤的或黑压压一大片冲击的情景吧,对敌军也有一种心理上的巨大震慑力。众所周知,德川家康手下“四天王”之一的井伊直政就以其麾下赤备闻名。作战之前,总大将会从侍大将众人中挑选前锋(先手)、后卫(殿军、后诘)等,侍大将中的重臣还可以担任旗头,紧急情况下(如与本阵联络中断等)可以率领其他侍大将军团作战。史料记载,三河时代的德川家康军就有东西两名旗头,其家臣团组织如下:
  a.旗本:
  旗本先手役——神原康政、本多忠胜、大久保忠世、鸟居元忠、植村家存、大须贺康高
  b.西三河旗头——石川数正(家成之侄,冈崎城主)
  松平一族——松平亲乘(大给城主)、松平直胜(佐佐木城主)、松平信一(藤井城主)、松平重吉(能见城主)、松平家吉(吉良东条城主)
  城持众——酒井正胜(西尾城主)
  家康直臣——内藤家长、平岩亲吉、酒井忠利、岛田平藏、铃木信爱、铃木喜三郎
  c.东三河旗头——酒井忠次(吉田城主)
  松平一族——松平忠正(樱井城主)、松平亲俊(福釜城主)、松平伊忠(深沟城主)、松平清善(竹谷城主)、松平家忠(形原城主)、松平康忠(长泽城主)、松平景忠(五井城主)
  城持众——本多广孝(田原城主)

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